どうも、僕です。
今日は、もうね。
書き殴ります。
自分の想いを。
生きづらさ
よく、陰で人の悪口を言ったりする人いますよね。
しかも、それに便乗してというか、同調して人の悪いところしか言い当てない、人の批評を論じる人。
僕ね、こういうの許せないんですよ。
いいですよ、スケープゴートにされるのは。
けどね、そんなの直接言えっての。
いいよ、謝るよ。自分に非があるんだったら。
そんなくだらないことが積み重なって、いつの間にか僕は苦しくなっていた。
息もできないくらいに。人を許せない自分を責めて・・・
生き辛いんですよ。
アガペー
皆さん、アガペーって知ってますか。
アガペーは、神の愛。罪人である人間に対し、神が注ぐ自己を犠牲にした愛のことです。
主イエス・キリストは、罪人である僕たちを救うために、身代わりに十字架に磔になったものとされてます。
つまり、そんなくだらない事を言う人も、言われる人も、神の愛に照らされてる同じ罪人なんです。
山上の垂訓
山上の垂訓(さんじょうのすいくん)は、イエス・キリストが山上で弟子たちと群集に語った教えのことをいいます。新約聖書・マタイの福音書5章から7章にかけて書かれています。
引用元:山上の垂訓(説教)を全て解説―キリストが教えた比類無き聖書の明言 | True Ark Bibleより
真福詞・謙遜の祈り
キリスト教における有名な教えが書かれているのですが、その山上の垂訓の初めにイエスはこう言います。
心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
マタイの福音書5章3章から10節
傲慢になってはいけない、人を裁こうとすると自分も裁かれる。
だからこそ、クリスチャンとして謙遜して生きていかなければならない、と感じる聖句です。
やはり僕は義のために生きていきたい。
例え迫害されようとも・・・
汝の敵を愛せよ
また、イエスはこうも言われています。
「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
マタイの福音書5章43節から45節
誰にでも許せない人、許せないことはあると思います。
僕も上述したとおり、許せない人、許せないことがあり、それが怒りとなり、自分さえも許せなくなります。
だから、僕は祈りたいと思います。
そして、自分を赦していきたいと思います。
それが、僕にとっての最善なのではないでしょうか。
まとめ
こうして書いていたら、答えは既に出ているじゃないか。
人に怒りを向けてもしょうがない。
祈り、赦すことをしていこう。
僕はアガペー=神の愛によって祝福されているのだから。
これを読んでくれた方にも、主の祝福がありますよう、お祈りいたします。