”ゲシュタルトの祈り”と”パールズを超えて”
どうも、僕です。
ただいま、悩み中。
昨日の記事の件です。
10,000PVは達成したものの、じゃあ今月も10,000PV達成できるのか・・・
そして、はてなブログProするはいいが、Googleアドセンスを入れても元を取れるのか・・・
そんな予期不安から中々踏み出せずにいます。
誰か僕の背中を押して!!
そんな自信がないときは、ちょっといい言葉や祈りに触れるのもいいかもしれません。
ということで本編です。
ゲシュタルトの祈りとは
”ゲシュタルトの祈り”は、過去に触れていましたので、こちらをご覧ください。
私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。
出会えなくても、それはしかたのないこと。
フレデリック・パールズ/「ゲシュタルトの祈り」より
この祈りは、僕が通う郡山グレースガーデンチャペルの週報に”もっとも偉大な祈り”として書かれています。私は私、あなたはあなた。
縁があって私とあなたが出会えたら素晴らしいが、出会えなくても、それは仕方ない。
これが去る者は追わず、来るものは拒まずの精神につながるのだ。
教会も一緒なのかもしれない。
伝道や宣教はするけれど、勧誘をするわけではないのだ。
これに対して、今で言うアンサーソングが”パールズ”を超えて”である。
パールズを超えてとは
私は私のことをする。
あなたはあなたのことをする。
もしそれだけならば、お互いの絆も、私たち自身も失うことになる。
私がこの世に存在するのは、あなたの期待に応えるためではない。
しかし、私がこの世に存在するのは、あなたが、かけがえのない存在であることを認めるためであり、そして、私も、あなたから、かけがえのない存在だと認めてもらうためである。
お互いの心がふれあったときに初めて、私たちは本当の自分になれる。
私たちの心のふれあいが失われてしまえば、私たちは自分を完全に見失ってしまう。
私と、あなたとの出会いは、偶然ではない。
積極的に求めるから、あなたと出会い、心がふれあう。
心のふれあいは、成り行きまかせではない、自分から求めていったところにある。
全ての始まりは私に委ねられていて、そして一人では完結しない。
本当のことは全て、私とあなたとのふれあいの中にあるものだから。
どちらも共通して言えるのは、これら2つの詩は聖書に書いてあるわけではない。
私は私のことをする。そして、あなたもあなたのことをする。
⇒もしそれだけならば、お互いの絆も、私たち自身も失うことになる。
私がこの世に存在するのは、あなたの期待に応えるためではない。
⇒しかし、私がこの世に存在するのは、あなたが、かけがえのない存在であることを認めるためであり、そして、私も、あなたから、かけがえのない存在だと認めてもらうためである。
まとめ
ここからは詩ではなく、僕の言葉である。
境界線は確かに必要である。
しかし、それ以上に人と人との心の触れ合いは必要不可欠であり、それはどんな心理療法や薬にも勝るのである。
僕が経験した出会いも偶然ではなく、必然なものです。
そして、僕は皆さんとの出会いに感謝し、そして、皆さんと共に生きていたい。
それが今の僕の気持ちです。
そして、僕はこれを僕の愛する主に祈ろう。
人の口によるものではなく、神様から届く声を僕は胸に刻もう。
これを見ていただく方にはクリスチャンだけでなく、異教徒の方もいらっしゃるだろう。仏教や神道といった方が多い国だからこそ、たくさんの考えや哲学を持つ人もいるだろう。
だけど、そんなものを凌駕したものが、2人の祈りなのではないかと思う。
どうか辛いときにも、あなたはあなたの弱さを誇り、祈りましょう。
全ての始まりは私に委ねられていて、そして一人では完結しない。
本当のことは全て、私とあなたとのふれあいの中にあるものだから。
心が触れ合えた時、僕とあなたは友となれるのである。
全てのことに感謝するとともに、最善が訪れますように。
それでは次回もお楽しみに!
See you next time!